【海外の反応】中世の政略結婚が雑すぎるwww 皇女「嫁ぎに来ました!」→相手「もう死んでます」→「じゃあ息子と結婚な」

歴史・都市伝説

中世の政略結婚って、現代の感覚からすると本当にぶっ飛んでるんよな。1265年、ビザンツ帝国の皇女マリア・パレオロギナがモンゴルのフレグ・ハンに嫁ぐためはるばる旅立ったんやけど、到着したら相手がすでに死んでいて、「じゃあ息子と結婚な」で済まされたっていう話が話題になってるわ。当時の外交感覚、現代人には理解不能すぎて草。

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マリア・パレオロギナ(ギリシャ語: Μαρία Παλαιολογίνα)は、ビザンツ皇帝ミカエル8世(在位1258~1282年)の娘だった。1265年、イルハン朝の建国者フレグ・ハンに嫁ぐため送られたが、到着してみるとフレグはすでに亡くなっていたため、代わりにその息子アバカ・ハンと結婚した。彼女はモンゴル宮廷で15年間暮らし、そのキリスト教信仰は多くのモンゴル人に影響を与えた。「デスポイナ・ハトゥン」(Δέσποινα はギリシャ語で「貴婦人」「奥方」の意)と敬意を込めて呼ばれていた。アバカの死後、彼女はコンスタンティノープルに戻り、修道院を創建してその院長となった。その修道院は彼女にちなみ、民間では「モンゴル人の聖マリア教会」として広く知られるようになった。彼女は修道名「メラニア」を名乗った。コラ修道院には、彼女のモザイク肖像が今も残っている。聖人には列せられなかったが、彼女の教会は征服王メフメトの命によりモスクへ改築されることはなかった。

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Maria Palaiologina (Greek: Μαρία Παλαιολογίνα) was a daughter of Byzantine Emperor Michael VIII (r. 1258–1282). In 1265, she was sent to marry Hulagu Khan, the founder of the Ilkhanate, but upon arrival learned that Hulagu had died, so she married his son Abaqa Khan instead. She lived at the Mongol court for 15 years, and her Christian faith influenced many Mongols; she was respectfully called "Despina Khatun" (Δέσποινα being Greek for "Lady"). After Abaqa's death, she returned to Constantinople, where she became the founder and abbess of a monastery. The monastery became popularly known as "St. Mary of the Mongols" because of her. She took the monastic name "Melanie". A mosaic portrait of her survives at the Chora Monastery. She was never canonized, but her church was never converted into a mosque by order of Mehmed the Conqueror.

✍️ 管理人: いきなり情報量エグくて草。15年もモンゴル宮廷で暮らして影響力持ってたとか有能すぎるんよ。ちなみに「モンゴル人の聖マリア教会」は今もイスタンブールに現存してて、トルコ語で「Kanlı Kilise(血の教会)」とも呼ばれてるんやって。1453年のコンスタンティノープル陥落でほぼ全ての教会がモスク化されたのに、彼女の教会だけ残ったのはガチで奇跡。日本でいうと織田信長の時代より200年以上前の話やのに、建物が残ってるのロマンあるわ。

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当時の外交、ガチで「着いたら現地でなんとかしてくれ」だったんだなw

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Diplomacy back then really was "we'll figure it out when you get there"

✍️ 管理人: それなwww 現代だとZoomで顔合わせすらできるのに、中世は数ヶ月かけて移動してるうちに相手が死ぬとか普通にあったんよな。日本でも戦国時代の政略結婚で「嫁ぐ予定の相手が戦死して別の家臣に嫁いだ」みたいな話は普通にあったし、人類どこも似たようなことやってるわ。個人的には、当時の使節団のリーダーのメンタル心配になる。「えっ、死んでるんすか…じゃあ息子さんで…」って交渉する側もキツすぎやろ。

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彼女はアバカの10人の妻のうちの1人になった(ちなみにアバカは、亡き父の妻も2人もらってる。草)。さらに側室も6人いた。

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\* She became one of Abaqa's 10 wives (Abaqa also married two of his late father's wives).

Plus he had another six concubines.

✍️ 管理人: 妻10人+側室6人とか、もはや家族構成が国家規模で草。父の妻まで継承してるのガチでヤバいんやけど、これは下のコメントにある「レビラト婚」っていうステップ遊牧民の慣習らしい。日本だと一夫多妻はあったけど、父の妻を継ぐのはさすがに無いんよな(実母以外でも倫理的にアウト扱い)。文化圏が違うと「普通」の基準がここまで変わるの、人類学的に面白いわ。

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これ、マルコ・ポーロが結婚の旅に付き添ったモンゴルの王女コクチンの話の逆パターンっぽいな。彼女はイルハン朝(今でいうイランあたり)のハンに嫁ぐはずだったんだけど、到着した時にはそのハンがもう亡くなってて、代わりにその息子と結婚したんだよね。アルグンは同時代でも屈指のイケメンだった一方で、ガザンは軍勢の中でも見た目はかなり地味だったらしい。ただガザンは軍人・立法者・王として非常に優秀だった。

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This is like the reverse of the story of Kököchin, a Mongol princess whom Marco Polo accompanied on her journey to marry a Ilkhanate (modern day Iranian) khan. The khan died by the time she arrived, so she married his son instead.

> We are told by one who knew both the princes well that Arghun was one of the handsomest men of his time, whilst Ghazan was, among all his host, one of the most insignificant in appearance. But in other respects the lady's change was for the better. Ghazan had some of the highest qualities of a soldier, a legislator and a king, adorned by many and varied accomplishments; though his reign was too short for the full development of his fame.

Kököchin - Wikipedia

✍️ 管理人: マルコ・ポーロまで絡んでくるの胸熱すぎん? コクチンの話、東洋から西洋へ嫁ぐ道中での話やからまさに鏡写しなんよな。「イケメンの父→地味な息子」に乗り換えになったけど中身は当たりだった、っていうのが人生っぽくて好き。日本でも「顔より中身」って言うけど、13世紀のモンゴルでも結局そこに着地するの草。ちなみにガザン・ハンはイスラム教に改宗した最初のイルハンで、歴史的にめちゃくちゃ重要な人物やで。

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「ガム噛みに来たのと、カーンと結婚しに来たんだが……」

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“I came here to chew bubble gum and marry a Khan…”

✍️ 管理人: 映画『ゼイリブ』の名台詞「I have come here to chew bubblegum and kick ass」のパロディやんけwww このネタ、Redditで定番化してて何にでも使われるんよな。日本のネット文化でいうと「〜するスレ」みたいなテンプレ的扱いやと思う。海外ミーム文化、80年代のB級映画ネタが今も生きてるの本当にすごいわ。

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モンゴル人(や当時のほかのステップ遊牧民)には、レビラト婚と呼ばれる未亡人相続の一種があって、父親や兄弟の後を継いだ息子・兄弟が、その父親/兄弟の未亡人たちと結婚する慣習がありました。例外は実の母親だけです。これは主に富と権力を一族内で固めるためで、というのも女性にも相続権があり、財産を所有することができたうえ、未亡人たちはたいていかなりの財産や家畜の群れなんかを持っていたので、彼女たちと結婚すれば、相続した側はそれを「一族の中に留めておける」ってわけです。なので、マリアがフレグではなくアバカと結婚する、というのは当時ならめちゃくちゃ普通のことだと見なされていたはずです。

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Mongols (and other steppe nomads at the time) practiced a form of widow inheritance called levirate marriage, where the son or brother inheriting would marry the widows of their father/brother, with the exception of their own mother. This was done mostly to consolidate wealth and power, since women were allowed to inherit and own wealth and the widows usually owned a good amount men/herds/etc, and by marrying them whoever inherited is able to “keep it in the family”.

So Maria marrying Abaqa instead of Hulagu would’ve been seen as extremely normal at the time.

✍️ 管理人: ぐう正論。レビラト婚は実は旧約聖書にも出てくる古い慣習で、ユダヤ教でも一時期あったんやって。財産が女性側にあるからこそ生まれた合理的システムなんよな。日本だと「再嫁」自体が江戸時代まではタブー視されてたりしたから、女性の財産権の扱いが文化でこんなに違うの面白い。現代の感覚で「ヤバい」って思うけど、当時の経済合理性で考えると割と賢い仕組みやったんやな。

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ああいうのは王国同士の同盟のためだけの話だったから、「まあ平常運転」ってやつです。ヨーロッパでも、キャサリン・オブ・アラゴンがヘンリー8世の妻になったのは、兄が死んでしまって、それでもスペインとの同盟を維持するのが目的だったからにすぎません(彼女が3歳で婚約させられていたのもそのため)。

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Since those things were only about the alliance between kindgoms, it was "standard procedure".

In Europe, Catherine of Aragon became the wife of Henry VIII only because his older brother died and the alliance with Spain was the goal (she had been betrothed for this reason at 3 y.o.)

✍️ 管理人: キャサリン・オブ・アラゴンの例えが秀逸すぎる。最初は兄アーサー王子と結婚→兄死亡→弟ヘンリー8世と結婚、っていう完全に同じパターンやんけ。しかも後にヘンリー8世の離婚問題でイギリス国教会成立につながる歴史的大事件にまで発展するのがエグい。日本でも織田信長の妹お市が浅井長政→柴田勝家と再嫁してるし、政略結婚で女性が翻弄されるのは世界共通の悲劇なんよな…。3歳で婚約はさすがに早すぎて引くわ。

💭 管理人の感想

いやー、中世の政略結婚エピソード、毎回ぶっ飛んでて面白いわ。今回のマリア・パレオロギナの話、単に「相手死んでたから息子と結婚」って雑な展開だけじゃなく、彼女が15年もモンゴル宮廷で生き抜いて、最終的に修道院を建てて院長になり、しかもその教会が1453年のコンスタンティノープル陥落でも破壊されずに今も残ってるっていう、ガチで歴史に名を刻んだ女性やったんよな。日本でいうと鎌倉時代後期の話で、北条時宗が元寇に対応してた頃やのに、地球の反対側ではビザンツの皇女がモンゴル人と暮らしてたっていうスケール感がエグい。レビラト婚やキャサリン・オブ・アラゴンの例も出てたけど、政略結婚で「予定の相手が死んだら親族で代替」っていうのは世界中で割と普通の慣習やったんよな。現代の感覚だと「人権どこ行った」ってなるけど、当時は女性も財産権持ってて、その財産を一族に留めるための合理的システムでもあったらしい。みんなはもしマリアの立場やったらどうする? 異国の地で15年生き抜いて、最終的に修道院建てて歴史に名を残すって、めちゃくちゃ強いと思うんやが。

📖 この記事のチャンク〜英語フレーズを覚えよう〜

“We'll figure it out when you get there”

🔊 読み方: ウィル フィギュア イット アウト ウェン ユー ゲット ゼア

🇯🇵 意味: 着いてから何とかしよう/その場でどうにかなるよ。

💡 細かい計画を立てずに、現地・現場に着いてから対応しようと言うときのカジュアルな表現。例えば友達が旅行先のホテルや交通手段を心配しているときに「とりあえず行ってから考えよう」というニュアンスで使える。

🌍 他の言語では?

🇩🇪 ドイツ語: Das regeln wir vor Ort (ダス レーゲルン ヴィア フォア オアト)

→ 「現地で何とかしよう」という意味で、旅行や仕事の段取りで気軽に使われる定番フレーズ。

🇫🇷 フランス語: On verra sur place (オン ヴェラ シュル プラス)

→ 「着いてから見よう」というニュアンスで、フランス人が旅行や予定の話で非常によく使う口語表現。

🇰🇷 韓国語: 가서 어떻게든 되겠지 (カソ オットケドゥン トェゲッチ)

→ 「行けば何とかなるさ」という楽観的なニュアンスで、計画を細かく決めない時に使う自然な口語。

🇪🇸 スペイン語: Ya lo vemos allá (ヤ ロ ベモス アヤ)

→ 「向こうで考えよう」という意味で、特にラテンアメリカで気軽な場面で頻繁に使われる表現。


※翻訳は意訳を含みます。正確な表現は原文リンクからご確認ください。
※引用元: r/todayilearned

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